自分のいのちを救おうと努める者はそれを失い、それを失う者はいのちを保つ(ルカの福音書 17:33)

Ⅰ 本文

自分のいのちを救おうと努める者はそれを失い、それを失う者はいのちを保ちます。
(ルカの福音書 17:33 / 新改訳2017)

Ⅱ 焦点

「救おうとする者が失い、失う者が保つ」という逆説

Ⅲ 文脈

この言葉は、ルカの福音書17章において語られる「人の子の日」――すなわち、復活したイエスが終末においてご自身を決定的に顕わにされ、神の支配が最終的に明らかとなる時――をめぐる文脈の中に置かれている。それは同時に、「終わりの日」、すなわち神の最終的な裁きと救いが不可逆的に示される時を指している。
直前では、ノアの日(洪水)、ロトの日(ソドムとゴモラの滅び)が引き合いに出され、人々が食べ、飲み、買い、売り、植え、建てるといったごく日常的な営みを続けているただ中で、裁きが突然訪れたことが語られている。ここで強調されているのは、異常事態や混乱ではなく、むしろ日常性そのものである。

Ⅳ 語義

ここで「いのち」と訳されている語は、新約聖書が書かれたコイネー・ギリシア語のψυχή(プシュケー)である(主要な英語訳では一般にlifeと訳される)。
新約聖書におけるψυχή(プシュケー)は、単に生物学的な生命を指す語ではなく、一人の人間が生きている存在の全体、すなわちその人自身を指す語として用いられている。
人間はしばしば、このψυχή(プシュケー)を自分の所有物であるかのように把握し、管理し、失うまいとして執着する。そのときψυχή(プシュケー)は、
・自分でコントロールしようとする生
・失いたくない人生、手放したくない自己
・安全・所有・立場・評価と結びついた自己理解
として捉えられることになる。
ここで言われている「いのちを救う」とは、生物学的な生命を守ることではない。それは、本来は神から与えられ、神に属しているψυχή(プシュケー)を、人間が自分のものとしてコントロールできると信じる姿勢そのものを指している。

Ⅴ 解釈

この一節で問題にされているのは、行為に対する報酬や罰ではない。人間が「いのち」を自分でコントロールできると考えるか、それともその不可能性を受け入れるかという、生の向きそのものである。
まず前提として、「いのち」を究極的にコントロールできるのは神だけである。人間の「いのち」は、神から一方的に与えられ、保持されているものであって、人間が自らそれを完全に把握し、保持し、保証できるようには造られていない。
にもかかわらず、人間はしばしば、その不可能性を無視し、自分で「いのち」を救おうとする。これは、「いのち」を神から受け取るものではなく、自分の手でコントロールできるものだと誤認することであり、神との関係を前提とせずに、自らの「いのち」を成り立たせようとする試みである。
このとき生じる神との断絶は、神が恵みを拒むことによって起こるのではない。むしろ、人間の側が、神から一方的に与えられる恵みとしての「いのち」を受け取るためのドアを、自ら閉じてしまうことによって生じる。
この姿勢はさらに、自分自身を「いのち」の最終的な管理者・保証者とみなす自己の偶像化や、金銭・権力・安全といったものを、「いのち」を保証する代替物として絶対化する偶像化へと、必然的につながっていく。こうして人は、神以外の何かによって「いのち」を支えようとするようになる。
しかし、神との関係なしに、人間の「いのち」は自立して存続できるようには造られていない。神との関係を前提とせずに「いのち」を成り立たせようとするなら、その「いのち」は最終的な根拠を自らの内に置かざるをえなくなる。
しかし、全知全能で完全無欠な人間や、不老不死の人間などは存在せず、 そのような不完全で有限な存在である人間が、自らを最終根拠とすることはできない。したがって、その「いのち」は、外部から罰せられる以前に、構造そのものとして破綻へと向かう。
これに対して、「いのちを失う」ことを引き受けるとは、生を放棄することでも、死を求めることでもない。自分が「いのち」の究極的な管理者・保証者であるという錯覚を手放し、「いのち」を神に委ねることである。
神は人間を破滅させる力を持つが、その力をもって人を滅ぼす神としてではなく、「いのち」を与え、保つ神として現れている。ゆえに、「いのち」を神に委ねることは破滅への賭けではなく、すでに与えられている恵みを妨げることなく受け取ることである。したがって、「保たれる」とは、生物学的に死なないことを意味しない。それは、死によっても断ち切られない、神との関係の中にある生、すなわち永遠のいのちが与えられることを指している。逆に「失う」とは、肉体の死そのもの以上に、神との関係を欠いた生が、その向きを変えられないまま確定してしまうことである。
ここで起きているのは、終末における新たな選別ではない。人の子(イエス)の現れによって初めて人が分けられるのではなく、すでに内側で、神に向かって開かれていたか、それとも自ら閉じていたかという生の向きが、そのまま露わになるのである。
このことは、人の子が現れる日までの時間が、人間にとって無意味であることを意味しない。むしろその日までのあいだ、人間は、悔い改めによって神に向かって開かれた生の向きへと立ち返ることができる
悔い改めとは、救済を人間の側で成立させる行為ではなく、救済という神の一方的な恵みを拒まずに受け取れる状態にとどまることである。したがって、人の子の日に「一挙に」起こる不可逆的な裁きとは、その場で新たに救いと滅びが振り分けられる出来事ではない。それは、すでに形成されていた生の向きが、もはや覆い隠されることなく明らかにされる出来事なのである。

Ⅵ 残余

この言葉は、「どう生きるべきか」を教えているというよりも、自分は何により頼んで生きているのかという問いを、静かに突きつけてくる。答えを出す余地は、ほとんど残されていない。しかし、その問い自体は、読み終えたあとも残り続ける。